人格というもの2


思考は、自己である。
確かにそうだ。
かの有名なデカルトも方法序説の中で、「我思うゆえに我あり」と唱えている。
つまり、思考こそが、我―自己―であり、人格の中核と言える。
そして、言葉こそが、思考の核となる。

我々は環境によって言葉を覚えていく。
日本で生まれれば、日本語を、福岡で生まれれば、博多弁といった感じだ。
この問題を突き詰めると、我々は言葉を、最も自分の身近にある社会から学習していくことになる。
そして、我々は、生きていく限り、言葉を学習し続けていく。
半ば、強制的に。

ごく当たり前のことだが、現在の社会に属する限り、我々は一人では生きてはいけない。
(可能か不可能かの二元論で言えば、可能なのだが、限りなく不可能に近い可能であることは、自明だ。)
とにかく、他者の協力が必要であれば、コミュニケーションが介在しなくてはならないし、コミュニケーションは言葉で成り立つ。
当然の帰着として、我々が言葉を学習していくのは、好奇心や知識欲を満たすことよりも、もっと切実な必要性に迫られるから、ということになる。

耳や目、時には、指先を通じて、自分に向けられた言葉を学習するというのは、本能のなせる業だ。
つまり、我々が意識せずとも、我々の脳に埋め込まれた本能は、言葉を収集し、解析し、修正し、蓄積し、上書きしていく。
だから、我々は、テレビに映る評論家の言葉や新聞の社説に書かれた文章を、いつのまにか自分の考えのように感じてしまう。
メディアが一斉に政治家を攻撃すれば、いつしか、我々は自分の意思で、その政治家を呪うようになる。

繰り返しになるが、思考の核は言葉である。
我々の本能は、日々、せっせと言葉を収集し、結果として、我々の思考を修正し続けていく。
そして、各々が、生きるために言葉を吐き出し合い、お互いの思考を上塗りしていく。

文明社会とは、人間が、個々の欲求よりも集団の利益を優先することで成り立つ。
我々の本能は、どうやら、個々の人格を社会に封じ込めようとしているらしい。


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