人格というもの3


我々の脳には、本能というプログラムが埋め込まれている。
数百万年ほど前に生誕してから、延々と引き継がれているため、少々、型は古いかもしれないが、現代でも全く問題なく稼動する。
神と呼ばれるプログラマーが本当に実在するなら、さぞかし鼻が高いだろう。
自分の作ったプログラムが、何(百万)年も問題なく動き続けることこそ、プログラマーの本懐だからだ。

話が脇道に逸れるが、
1800年代のチャールズ・バベジによる階差機関以来、計算機はムーアの法則に従い、時間に対して指数関数的な進化を遂げてきた。
同時に、プログラムを使用した解析技術も爆発的に発展し、現在、およそ解析と名の付くもので、プログラムの付け入る隙の無い物はほとんど皆無じゃないのかとさえ思えてしまう。

プログラムというものに傾倒している私であっても、やはり、プログラムが生物の行動原理や進化を完璧に模倣できるとは考えてはいない。
パソコンの中に、自分自身が再現されるなんて、考えただけでぞっとしてしまう。
と言いつつも、本能をプログラムと考えることには、不思議と抵抗を感じない。
むしろ、しっくりとくるような気もする。

本能は、特定の法則に従って、規則正しく人を突き動かしていく。
腹が減れば、何か食べずにはいられないし、眠たくなれば、どれだけ抵抗しようとも寝てしまう。
その様態は、どうしても、私の頭の中ではプログラムの動きとオーバーラップしてしまう。
自分の所有するもののはずなのに、アップデートもリカバリはおろか、デバッグすらできやしないプログラムではあるが。

話を本流に戻すと、
我々は、本能によって、オートマチックに言葉を学習していく。
本能はプログラムのようだと述べたが、的確に言葉を選ぶなら、本能に突き動かされる人間は、あたかも予めプログラミングされたかのように、規則正しく行動する、ということになる。
動くのは、本能というソフトではなく、あくまでハードである、我々人間の方である。
なぜ、我々は、本能の成すがままに、行動してしまうのだろうか。

その解答は、私は、快楽にあると考えている。
本能には、必ずと言って良いほど、快楽がセットになっている。
(むしろ、快楽までを含めて、本能と呼ぶべきかも知れない。)
我々は、残念ながら、快楽にはどうやっても抗うことが出来ない。
快楽があるからこそ、我々の人格(=理性)は、常に本能に敗北し続ける。
しかし、だからこそ、人間はここまで生きながらえてきたとも言える。
快楽が無ければ、我々の人格は、早々に本能を打ち負かしていただろうし、そんな生物を放っておいてくれるほど、自然は寛大ではないだろう。

繰り返しになるが、我々は、本能によって、オートマチックに言葉を学習していく。
意識することなく、メディアから、文章から、会話から、貪欲に飽きることなく言葉を吸収していく。
その時に、もたらされる快楽とは何だろうか。
その答えは、私が永い間、疑問に思っていたことの解答につながっていたようだ。

好奇心や知識欲は、一見、生きていくのには不必要なもののように感じられる。
それにも関わらず、それらがもたらす快楽は何処から来るのだろうかと疑問に思っていた。
麻薬を鼻の粘膜や舌下から吸収するのを除くと、意味の無い快楽は存在し得ないからだ。

我々の人格は、これからも、本能に敗北し続けていくだろう。
しかし、好奇心や知識欲などのように、表面的には、本能とは切り離された快楽のことを考え、人格は本能に果敢に勝負を挑んでいるのだ、と誇らしく思うのも悪くはない気がする。


前のページ 次のページ ブログ目次へ
inserted by FC2 system