人格というもの4:ぐーるぐるだ


私たちは、言葉を使って考える。
なぜだか分からないが、言葉を使わないと、何一つ考えることは出来ない。
目の前にある本を手に取ろうとしても、意志が働かなければ、体は動かない。
意志は、思考そのものであるから、結局、言葉がなければ、目的を持った行動は何一つ出来ないことになる。

ふと、私は言葉を使っているのだろうか、それとも、言葉こそが自分自身なのだろうかという疑問にぶつかってしまう。
この命題は、私という人格が、体(ハード)を指すのか、それとも思考(ソフト)を指すのか、と言いかえることも出来る。

医学的な観点から見ると、私の意識は、脳に存在するいくつかの神経回路に電気信号が流れることによって生じるらしい。
では、人格とは、ハードなのかというと、話はそれほど単純ではない。
私の意識を生み出した電気信号を生み出したものは、そもそも一体何なのかという疑問にぶつかるからだ。

<目の前の本を手にとってみる>

私が本を手に取れば、その時、確かに私の意志が最初にあるはずだ。
だけど、私の意志は、電気信号で生じる。
それでは、まず有りきは、神経回路の電気信号なのか?
私の意志はどこに行った?
私の意志を生み出しているのは、私ではないのか?
・・・
結果と原因が入り混じって、もう、ぐーるぐるだ。

何のことはない、たったこれだけのこと、しかも自分自身に関することなのに、簡単には、結論に辿り着くことが出来ない。
パラドックスめいたことに、激突してしまう。

<一日、考え抜いた>

上のパラドックスめいたことの、解答は、多分、次のようになる。

当たり前だが、やはり、最初に有りきは、自分の意思だ。
しかし、私たちは、脳からの解答を待たないと、自分の意志を認識出来ないのだ。
つまり、
「 意志の発現 → 脳が受信 → 神経回路に電流が流れる → 意志を認識 」
となる。
意志の発現と、意志の認識にタイムラグが生じれば、上述のパラドックスは生じない。

この仮説が正しいとすれば、かなり興味深い。
私たちは、確かに、言葉を使わないと、びた一文たりとも考えることが出来ない。
しかし、私たちが考える時、頭の中に浮かぶ言葉が、実は、脳が翻訳した結果に過ぎないのかもしれないのだ。

私たちは、言葉しか認識できない。
だから、脳は、意志を言葉に翻訳してくれるのだろう。
私が生み出したものを、私が認識出来ないとは、どういうことだろう?
私という意志―実体―は、私には認識出来ないのか?
結局、私は、言葉(ソフト)に過ぎないのか?
どうやら、やっぱり、ぐーるぐるだ。


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