人格というもの5:支配者は誰だ?


思考というのは、人間だけが持つ、かなり特殊な特質だ。
と長年、信じてきたのだが、
私たちが、脳の翻訳した言葉を認識しているだけだと考えると、若干の違和感というか、悶々としたものを感じてしまう。
思考というのは、人間だけの特権ではなく、他の動物も持っているかもしれない。
そんな可能性が思い浮かんでしまうからだ。
人間が特権的(と感じているだけだが)に持つのは、思考ではなく、思考を翻訳してくれる神経回路に過ぎないとすると、何とも、思考の神秘的な印象が薄れてしまう。

しかし、考えてみると、人間の体は全てがそうなのかもしれない。

<再び、本を手にとってみる>

本を手に取ると、当たり前だけど、手は思い通りに本をつかむ。
しかし、冷静に考えると、手を直接動かしているのは、脳だ。
もちろん、まず有きは、自分の意志だが、手の筋肉を伸縮させるのは、脳からの電気信号だ。

<面白い実験がある>

例えば、自分の手の動きを再現する機械がある。
手とか指に付けたセンサーの情報から、機械の手が、自分の手の動きと同じように動く。
自分の手を動かしたのと同時に、機械の手が動けば、私たちは、その機械を自分の手のように感じる事が出来る。
しかし、機械の手が、ある一定の時間遅れて動くと、私たちは、その機械を自分(の意志)とは、独立したものとして認識するそうだ。

思考にも、同じことが言えないだろうか?
私たちの意志と(ほぼ)同時に、言葉が返される。
すると、私たちは、その言葉を自分のもののように感じる事ができる。
言い換えると、私たちは、脳の言葉を「自分の言葉と感じているだけ」かも知れない。

人格というものは、ある面では、自己の客観視とも言える。
自己を認識するためには、自分自身を、外から眺める必要があるからだ。
しかし、そもそも、思考自体を(何かしらのつながりはあるとしても)自分自身が直接発していないとしたら?
それは、もはや、客観視ではなく、対話となるのかもしれない。

脳をある種の電気回路(脳神経学ではしばしばそう扱うようだ)とすると、人格とは、脳(ハード)によって決定されるのかもしれない。


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