この世には、突き詰めると二つのものしか存在しない。
それは、自己と他己、つまり自分と自分以外だ。
しかし、私たちが真に理解できるのは、自己でしかない。
<じっと手を見る>
私の手に注がれる照明は、手の表面で反射して、私の網膜へと到達する。
網膜に到達した光は、そこで電気信号に変換され、視神経を通り、脳の後頭部側に位置する後頭葉へと送られる。
さらに、後頭葉では、電気信号を受け取った神経細胞は物理的にはつながっておらず、神経細胞は化学物質を送受信して、情報を伝えていく。
そこで、ようやく私は、自分の手の像を見ることができる。
一体、私が見ているのは何だろう?
うがった見方をするなら、私の目に映っているのが、手の真の姿かどうかは分からない。
むしろ、同じ遺伝子を持つ人間が存在しないのだから、少なくとも、肌の色や質感は、人によって見え方が違っている方が当然のようにも感じる。
とにかく、私たちが見たと感じているものは、実は、網膜で作られた電気信号を脳がキャッチしているに過ぎないのなら、私の手(の反射光)の情報は、私の頭の中にあるに違いない。
同様のメカニズムが、味覚、聴覚、触覚、嗅覚にも成り立っている。
私が何かを認識すると、その情報は直ちに電気信号に変換され、脳へと送られる。
「私が認識するから存在するんだ!」という、自己中な人間原理的に考えると、私の認識する世界は全て、自分の頭の中にあることになる。
<世界は私の頭の中にあるだろうか?>
当たり前だけど、もちろん、そんな事はない。
手を見た時、空を見た時、その時その時の情報が頭に収納されるだけで、世界の全てが頭の中にあるわけじゃない。
でも、目の前の青い空間が「空」だという情報は、確かに私の頭の中にある。
私が認識する全てには、必ずラベルが貼ってあり、その情報は全て頭の中に入っている。
文字で構成されたグロテスクな世界。
人格は、その世界を統べる「文字で出来た」神なのかも知れない。