人格というもの7:広大な無意識に浮かぶ


人間には、無意識と意識の世界がある。
無意識の世界は、広大だ。
呼吸、鼓動、様々な分泌物、全ては無意識によってなされている。

私達は、無意識を意識出来ないので(当たり前か)、意識を尊重し、無意識を単なる機能だと考えがちだ。
でも本当にそうだろうか?

一流のアスリートは、考えるよりも前に体を動かすことが出来る。
「ボールが飛んできたから、バットを振ろう」と考えていたら、バットはボールにかすりもしないだろう。
プロのピアノ奏者は、無意識によって指を自在に動かす。
「次はドの音だ」と考えていたら、モーツァルトは弾きこなせない。
もっと身近な例では、私達は、おしゃべりを楽しんでいる時も、無意識に言葉を吐き出して、言ってから自分が何を言ったかに気が付く。
(例えば、言った後で、自分の言葉を否定する場合もある)

<無意識は広大か?>

何故だか分からないが、無意識が広大というのは何となく納得できる。
無意識は、意識出来ないのに、感じる事が出来ないのに、なぜ広大と思うのだろう?
本やテレビからの知識か、自分の意識とは無関係に心臓が活動するからか、私達は確かに、無意識を認識している。
私達は、無意識の持つ莫大なパワーを、それこそ無意識に、感じ取っているのではないだろうか?

無意識が、意識以外の全てを含むのなら、どうやら、やはり、無意識は広大で強烈だ。
無意識は、私達を強烈に突き動かしていく。
人格が本能に負け続けるように、意識は無意識に負ける続けるのかもしれない。

意識というのは、広大な無意識に浮かぶちっぽけな島だと言ったら、言い過ぎだろうか?


  参考:『マインド・タイム』ベンジャミン・リベット
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