人格というもの8:おしゃべりな意識、寡黙な意思


人間の持つ「意識」は、どこから、どうやって発生するのか?
この問題に関しては、宗教、哲学、そして、脳神経学の立場から、色々な仮説が立てられている。
大別すると、意識は神経細胞の活動から生じるとする「一元論的な立場(機能主義とも言う)」と、意識は神経細胞とは独立したものであるとする「二元論的な立場」に分かれるようだ。

純粋(?)な科学的な立場からは、やはり意識は神経細胞に電流が流れることによる産物のような気もするし、この世には「物質界」と「精神界」の二つが存在して、神経細胞の活動は物質界、意識は精神界に属する現象のような気もする。
観測可能な物質界のみを信じるのは、科学者の高慢さのようでもあるし、そもそも物質と精神は分離しないといけないのかという疑問も湧いてくる。

「一元論」か「二元論」のどちらに属するかは一先ず置いといて、
私は、「意識」とは、「無意識」の発している言葉に過ぎないような気がしている。
もし、人間以外の動物が明確な意識というものを持たないなら、人間だって自分の行動を意識(=認識)せずとも生きていけるはずだ。

動物だって、空腹を感じれば食事をするし、恐ろしいものからは逃げようとする。
つまり、自身での意識(認識)がなくても、「意思」は存在すると言える(多分)。
「意志」とは、言い換えるなら、「欲求」となる。
欲求は理性とは対極のものだから、さらに、「欲求」を言い換えると、「本能」つまり「無意識」へとつながる。

何度も何度も、繰り返すが、私達は言葉を使ってしか考えることができない。
だから、理性を基礎とした人格は、言葉で出来ているという考えはそれほど間違っていないように思える。
しかし、私達を突き動かすものが、常に理性とは限らない。
むしろ、本能的な欲求の方が、私達を強烈に突き飛ばすことを、誰もが知っている。
それは、私達の「意思」であるはずだ。

前に述べたように、「意志の発現」と「意志の認識(=意識)」の間にタイムラグが生じるのなら、私達の意志は、(ややこしいが)無意識にこそ存在することになる。

人間は、しばしば、自分自身を見つめようとする。
しかし、自分自身を意味する「自由な意志を持った自己」の住処が「無意識」であるなら。
言葉という道具しか持たない私達は、どうやら、そこに到達することは出来ないようだ。


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