何が怖くて8:この上なく不快な恐怖


松尾芭蕉曰く
「春と夏の境目が無いように、生と死の境目もぼんやりとしているものだ」

私たちは、生きているし(当たり前か?!)、死んでしまったら、少なくとも今現在認識しているものは認識できなくなるだろう。
(魂は残っても、目という実体を通して、物を見ることはできなくなるはず。)
つまり、私たちは、死を認識することが、どうしたってできっこない。
「俺は、お花畑に行ってメルヘンな気分に包まれたんじゃ!」って臨死体験者が口を尖らせたところで、「酸欠した脳から多量の脳内麻薬が分泌されたから、幻覚を見たんじゃないの?」って意見の方がどうしたって説得力を持ってしまう。
まあ、数人の臨死体験者を除いても、大抵の人は、生きている間は死を認識出来ないし、死んだら死んだで、やっぱり認識出来ないってことになってしまう。
でも、それでも、やっぱり、どうしたって、どうしようもなく、死は恐ろしい。
(ようやく、本題だ・・・)

<何で死が恐ろしいの?>

夜中、静まりかえった路地を歩くと、後ろから、『ぺたぺた』とまるで裸足で歩いているかのような足音が聞こえてくる、振り返って見ても誰もいない、でも歩き始めると、やっぱり背後から『ぺたぺた』と足音が聞こえてくる、走っても、その足音はだんだんと近づいてくる・・・、ぎゃー!!!
家に帰って電気を付けると、ベランダのガラスが割られている、ベランダには外から侵入した足跡が付いている、『どろぼうだ!』と考えて、110に電話をかけている途中で気が付いた、『侵入した足跡はあったけど、出て行った足跡が無かったぞ』、背後で物音が・・・、いやー!!!

<???>

(↑特に関係無し、書きたかっただけです。)
恐怖は、私たちを、強烈に突き動かす。
人間に限らず、くじらから、大腸菌まで、天敵が現れれば、恐怖に駆られて逃げだす。
多分、感情の中で一番押しが強いのは、恐怖だろう。
でも、冷静に「恐怖って何なんだ?」って考えて、突っ込んでみると、意外と頭がこんがらがってしまう。
恐怖は、考えてみると、複雑な感情だ。
状況を判断し(「真っ暗な夜道だから気をつけないと」)て、起こりそうな現象を推測し(「電柱の影に誰か潜んでない?」)ないといけない。
くじらはともかく(「賢い生物だから食べちゃ駄目」って言われるぐらいだから)、大腸菌にそんな芸当が出来るだろうか?
もちろん、大腸菌は恐怖を感じていないのかもしれないけど、大腸菌だって、乳酸菌が来たら逃げようとするし、エネルギーを求めて活動だってするわけだし。

<大腸菌は関係ないでしょ!>

大腸菌は、ちょっと極端な例だけど・・・
恐怖が複雑な感情なら、もっと根本的な感情に分解できるはずだ。
人間の感情を分解して、分解して、分解して・・・いくと、最後には、「快」と「不快」に辿り着く。
恐怖を構成する主成分は、「不快」だ。(多分!)
しかも、強烈な。
しかも、これなら、大腸菌が感じるもアリなような。(といっても、人間の「感じる」とは乖離が大きいだろうけど)

誰だって、「不快」は堪らなく嫌いで、「快」はこの上なく大好きだ。
「恐怖」を「不快」で解釈できれば、私たちが本当は何を恐れているのかが、ぼんやりと見えてくる。

<それで、何が怖いの?>

・・・次回に続く。


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