何が怖くて9:近視眼のイブ


全ての感情は、「快」と「不快」から構成される。
え!?そんな訳はない?まあまあ、そう言わずに・・・
うん、まあ、そうね・・・
・・・全ての感情は、「快」と「不快」から構成されると仮定しましょう。
当然、恐怖は「不快」の極み、超高濃度の「不快」だ。

<死は不快ってこと?>

私たちは、認識できるものしか怖がらない。
・・・というか、怖がりようがない(そりゃ、そうね)。
そうなると、芭蕉が言うように、私たちは、意外と身近なものに死の恐怖を感じているのかもしれない。
ものすごく濃縮された「不快」として。

人間が感じる強烈な「不快」は何だろう?
(あまり考えたくないけど)死を連想させるほどの「不快」とは?
身近にあって、誰にでも手が届くものと言えば、それは「飢え」と「寒さ」だろう。
どちらも、言うなれば、エネルギーの欠如だ。

季節柄、温度に話を絞ると・・・。

温かさは「快」(「温泉は極楽じゃ〜」)だけど、寒さは「不快」(「寒中水泳だけは堪忍して下さい」)だ。
これは、考えてみると、結構面白い。
温かさと寒さは、連続的につながっていて、温度の高低でしかない。
でも、一方は「快」に結びついて、もう一方は「不快」に結びついてしまっている。
もう少し突っ込むと、温かい場所は、多様な生物が溢れる原色のイメージだけど、寒い場所は、生物にとって過酷で荒廃したイメージだ。
温かさと寒さの持つイメージは、そのまま、天国と地獄のイメージと言える。

<とうとう、天国と地獄の登場か!>

天国と地獄っていう、ある意味、強烈な二元論の世界観。
それを、私たちが苦もなく受け入れてしまうのは、人間の感情が「快」と「不快」という明快な境界線を持つからだろう。
それに、古来から、世界各地で崇められてきた太陽は、人間を寒さから(飢えからも)救ってくれる神のイメージがぴったりはまる。

<結局、何が怖いんだ?>

私たちは、身近なところで、死の恐怖を感じて生きている。
飢えと寒さだ。
ひょっとすると、あなたは飢えを感じることはあまりないかもしれない。
でも、寒さを感じずに生きてはいけないはずだ。
(南国に移住したって、寒さがゼロになるわけじゃない。)
その時に感じる「不快」が、私たちに死の恐怖というものを植え付けていく。
気が付けば誰もが、「死とは不快なものだ」っていう洗脳を受けている。
(だから、「死は快だ〜!」なんて叫ぼうものなら、冷たい視線で蜂の巣にされてしまう。)

<死の恐怖には打ち克てないの?>

人間は飢えと寒さを克服できるだろうか?
「出来ない!」と言いたいところだけど、出来そうな気がする。
でも、もしそうなったら、私たちは何を目指して生きていくんだろう?
天国でぬくぬくと惰性で生きていって、何かを得るだろうか?

ご心配なく!
私たちの目の前には、禁断の知識の実が、いつだってぶら下がっている。
誰かが、いつか、それに手を出すだろう。
後世で語られるイブは、きっと、白衣と眼鏡を身につけた「科学者」と呼ばれる人物だろう。


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