不快な迷路、不自由な幸福3:うし君とかえる君は、自由意志を持つか?


私たちは、競い合って、快を求める。
なるべく多く、誰よりも多く。
毎日、毎日、懲りもせず
「ふ〜じこちゃ〜ん!」「ふ〜じこちゃ〜ん!」の連発だ。

だけど、快を手に入れるためには、色々と面倒なことが多い。
一つの快を手に入れるために、他の快を手放したり、二つの不快を抱え込んだりと。
(宝石を横取りされても、笑って許しましょ。)

咳が止まらないけど、とりあえず一服。
肝臓こわしてるけど、とりあえずビール。
借金あるけど、有り金はたいて万馬券。
よく聞く話だ。

<だって、我慢出来ないから・・・>

私たちは、自分の意志で生きている。
例え、脳科学が、人間の自由意志を否定しても、やっぱり、それは変わらない。
私の指が動くのは、私の意志によってだし、上司の臭い息に笑って答えられるのも、私の意志によってだ!

だけど、純粋な『快』というものを考えた時に、それが分からなくなる。
実は、自由意志っていうのは、後付の理由でしかなくて、
私たちは、『快』というものに、操られているだけかもしれない。

<人間は操り人形か>

もし、私たちが、『何か』に操られていたとしても、私たちは、その『何か』の存在を認識出来ていない。
だって、あなたの指が動くのは、あなたの意志によってでしょ?
その『何か』がすごいサディストで、「お前を操っているのは、俺だぞ、うーりゃ、うりゃ。」とやったとしても、やっぱり、これは自分の意志だって勘違いしてしまいそうだ。

例えば、実験のために、迷路に入れられたマウス。
迷路を彷徨いながら、自分の生が、人間によってコントロールされていることに、気が付くだろうか?
多分、マウスは、そんなことを考えもしないだろう。

だけど、私たちは、違う。
私たちは、こう考えることができる。
「ひょっとしたら、私たちは、『何か』に操られているんじゃないか」と。

その時、私たちは、自分という枠から抜け出して、自分を操っている『何か』よりもさらに高い所にいって、自分自身を見つめている。
(まあ、あくまで、仮想的にだけど。)


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