何が怖くて6:宗教の呪い


私達は、全てに意味を求める。 茶柱が立っていたら、今日は何か良い日だと思うし(古い?)、下駄の鼻緒が切れたら、今日は不吉な事があると思うし(ますます古い?)、そんな迷信めいたものじゃなくても、恋人がイライラしていたら、自分が何か気に触るようなことを言ったのかと悩むし、財布を落とせば、昨日仏壇に手を合わせなかったからに違いないと思い込んでしまう。

「自分は、そんな馬鹿なことは考えない」と言うあなたには、これはどうだろう?
「物質の全ては、原子で出来ていて、電子という重さはあるけど大きさのないものが周りを飛んでいる」なんていう、かなりぶっ飛んだ理屈は認めていないだろうか?
もしくは、「宇宙は、ビッグバンと呼ばれる大爆発で始まり、今現在、(減速しているだの、いやいや、加速しているだのと議論は尽きないが)膨張を続けている」なんて理屈はどうだろう?
私達は、結構、とんでもないことをすんなりと信じていたりする。
科学という免罪符が貼られたものは特に。
なぜだか、人は、科学は正しいと思うようだ。

<誰だ?「科学は客観的だ」なんてことを言ったのは>

私達は、意味のあるものしか見えないし、感じられない。
通勤電車の中で、乗っている人の顔なんかいちいち憶えてやしない。
(そんなことをしていたら、会社に着く前に、知恵熱が出てしまう!)
でも、スリを取り締まる警察官だったら、乗っている人の顔を一人一人確認するだろう。
普段は、散歩道の雑草なんか目に入らない。
(そんなことをしていたら、怖い人にぶつかってしまうかもしれないじゃない)
でも、『まむしに注意』なんて看板があれば、雑草に目を凝らして歩くだろう。
要するに、私達の目に映るのは、自分にとって意味があると思っていることだけだ。
それ以外のことは、私達の意識をあっさと素通りしてしまう。

りんごを引っ張る重力、物質を構成する原子。
そこにあるのは、主観的で強烈な思い込みだ。
だって、道端の雑草ですら素通りするのに、客観的だなんていう、ぼんやりした意識で、重力なんて得体の知れないものを見つけられるわけが無いでしょ?
誰かが言い始めた『思い込み』は、やがて色々な人を巻き込み始める。
思い込んだ人が数人の時は『妄想』だったものが、数百人で『仮説』に変貌して、数千人を超えると『理論』と呼ばれ始める。
数万人を巻き込めば、それは『科学』という免罪符を与えられて、『客観的な事実』に昇格してしまう。

<それで、結局、科学は主観的なの?客観的なの?>

科学は、宗教から産み落とされた。
だけど、その科学は、とうとう宗教の柱である『神』の領域まで侵入を始めた。
科学は、どんなものにでも意味を付けていく。
空が青いのは光の散乱の結果だし、風が吹くのは気圧の影響だ。
全ての生物はDNAと呼ばれるプログラムが組み込まれている(都合の悪いことは全部、DNAのせいにしちまえっ!)し、人類が誕生したのは過酷な自然淘汰に打ち勝ったからだ(人間は創造されたんじゃない、勝ち抜いてきたんだ!)。
このまま行けば、科学はこの世の全てに意味をつけるだろうか?
神に対しても?

残念ながら、科学は『神の真理』には立ち入れない。
なぜなら、科学が『客観的』であることを強要されているからだ。
科学は、それ自身が『神の真理という万人に共通のもの(≒客観的)を探すために作られた』という枠組みから逃げ出すことが出来ない。
むしろ、年々、がんじがらめにされてしまっている。

科学の持つ『客観性』は、宗教の呪いなのだろう。
客観性から解き放たれれば、科学は、ますます自由になるだろうに。


  参考:『おしゃべりな宇宙』K.C.コール著
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