何が怖くて7:迷子の心得


私達は、色々なものに突き動かされて生きている。
全く、色々なものに。
心地よい眠りから、毎朝定時に引き戻されて、でも布団の中であがくから、結局毎朝、慌しく朝食を取って、電車の時間に間に合うように走り(しかも、早めにホームに行かないと、電車で座れない!)、会社に着いたら、すぐに会議の準備をして(おっと、顧客からメールが来てるから、忘れない内に、返事を打っておかないと)、会議中は眠気と尿意と戦って、終わったと同時にトイレへダッシュし、席に戻ると、上司から書類の不備を指摘され・・・。
何者であろうと、もっと言うなら、どんな生物であろうと、何かに突き動かされて生きている。
そこには、確固たる『生きる』という意志がある。

<あなた、生きてる?>

実際のところ、『生きる』って何だろう?
全く、うんざりするほど度々繰り返すが、私達は、どう逆立ちしても、認識できるものしか認識出来ない(当たり前か?!)。
認識できるとは、意味を持つということだ。
だから、重力なんていう意味が存在しなかった時代、りんごは、ただ木から落ちていた。
原子だの分子だの(ついでにクォークだの)といった意味が存在しなかった時代、空気は何も存在しない"ただの"空間だった。
科学が意味を付けてくれたおかげで、私達は色々なものを認識できるようになった。
そして、意味を持つということは、価値を持つということに他ならない。

<だから、生きるって何よ?>

『生きる』ということは、自分で、自分に意味を持たせることだ。
自分という人格が、今確かにここにいるぞ!という感覚だ。
そんなの当然じゃん!と思うかもしれないけど、いやいや、これが意外と。
考え出すと、デカルト(「コギト・エルゴ・スム!コギト・エルゴ・スム!」)じゃなくても、迷子になること請け合いだ。

何かに意味を付けるというのは、完璧に主観的な行為だ。
思い込みと言ってもいい。
これは、子供からお年寄りまで、誰にでも簡単にできる行為だ。
数秒あればできるし、道具も要らない。
座っていても、立っていても、テニスをしながらだってできる。
でも、だから、安定するのが難しい。
はっきり言って、相当思い込みが強くないと、一人では無理だろう。

<それじゃあ、どうすれば良い・・・?>

誰かの目を通して自分を見て、誰かの口からそう言ってもらうしかない。
見え透いたお世辞(「先生あっての私です」)でも、おだての言葉(「いよっ!大統領!」)でも、まあ、いいじゃない。
少なくとも、その人にとって、あなたは、無意味な空間じゃないってことなんだから。


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