不快な迷路、不自由な幸福1:ジャンキーの幸せ


世の中には、色々な観念が存在する。

道徳、正義、信念、・・・
男らしさ(マスラーオ!)、女らしさ(ヤマトナデーシコ!)、・・・
「大胆かつ繊細に!」(顧客のムチャな要望)、
「責任者は、君だろう」(上司のなすりつけ)、・・・
などなど。
全ては、人間が作り出したものだ。

中でも、私たちを縛ってやまないのが、「幸せ」というやつだ。
救世主から殺人鬼まで、老若男女問わず、誰も彼もが、幸せになりたくってたまらない。

<そりゃあ、幸せには、なりたいでしょ>

でも、一体、幸せって何だ?
この問いの答えは、何度も何度も考えてみたけど、どうしても分からない。
でも、やっぱり考えてしまう。
でも、どうしても分からない。
堂々巡り。
堂々巡り。

<今度こそ!>

私たちは、色々なものに、突き動かされて、生きている。
「ブランド物のバッグが欲しいから、残業」とか、
「お腹が痛いから、(会議の前に)早退」とか。
そんなものを、突き詰めていくと、
最終的には、快と不快に分類される。

「快」(スタバの店員の笑顔;朝一で萌え尽きた・・・)を手に入れるためか、「不快」(部長の足の臭い;お願いだから、靴を脱がないで)から逃げるためか。
腰の重い私たちが動くのは、そんな時だけだ。

それじゃあ、「幸せ」はどうだろう?

<快か不快かってことか>

誰もが求めてやまないものが、「不快」なわけがない。
「幸せ」の属性は間違いなく、「快」だ。
でも、「幸せ」≒「快楽」となっていないから、話がややこしい。
まったく、本当に、ややこしい。

とれんでぃードラマのバーの女優は
「どうして私は、幸せになれないのかしら」
と愚痴る。
絶対に
「どうして私は、快楽が得られないのかしら」
とは言わない。
(台詞を間違えると、月9がR指定だ)

上の言い換えが、奇妙に感じるってこと事態、「幸せ」と「快」が同一ではないことの証明だ。
残念ながら、(快を追い求めた)ジャンキーの末路は、幸せではないようだ。


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